【映画評論?】平成最後の昭和の日に21世紀の未来を取り戻す映画を見た
お久しぶりです。アスパロゴスです。
最近は転部の影響もあり、忙しかったのでブログ更新が出来ませんでした。
(転部についてはまたいつか記事を準備しております)
昨日は平成最後の昭和の日でした。
世間では「平成最後の昭和の日に大正駅で明治のR1を飲む」という、全てが間違ってるコラ画像みたいな事をするのが流行っていたそうですね。
――一方、その頃アスパロは……
働いてました。
まかないのステーキ目当てに飲食店の派遣行ってました。
ところで、「平成最後の昭和の日」。
時代をまたいだようなこの言葉に関連して、私は一つの映画を思い出したのです。
「クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
アマプラにあったので、バイト帰りの電車で急いで観ました。
ボロクソに泣きました。
あと電車内なのにすんごい笑った。
という事で、平成最後の日に、平成最後の昭和の日に見た、「20世紀(だいたい昭和を意味する)」のオトナが彼らの夢見た「未来」を取り返す為に「21世紀(だいたい平成を意味する)」を奪いにやってくる映画のレビューをしたいと思います。
※今回は冗談抜きのクソ真面目レビューです。ブログの体裁気にせずに果てしなくだらだらと書きます。
このクソブログをここまで読んで尚、まだ気力がある方々は覚悟して読んでください。
もくじ
はじめに
僕は、この物語のテーマは「未来」だと思っています。その中で、「オトナと子供」、「20世紀と21世紀」、「過去と未来」などといった様々な対比が行われています。
平成最後の日に、こんなレビューを書き始めたのも、令和という「未来」を臨む最後の機会だと思ったからです。
尚、筆者は平成最後の日にすべき事をすべて完了する為に急いで書いていますので、後ほど加筆等するかもしれませんのであしからず。(レポート提出前日の深夜みたいなテンションで書いてます)
ちなみにこれらを対比としてでなく、民俗学的に境界として見る事も出来る筈ですが、それはもう少し僕の中の民俗学を鍛えてからにしたいと思います。
20世紀と21世紀
私は前述した文章にて20世紀を昭和、21世紀を平成としました。その理由を以下で説明していきます。その為にまず、このアニメにおける”敵”として位置づけられている「イエスタデイ・ワンス・モア」の目的から説明していかなければなりません。
この映画では、「イエスタデイ・ワンス・モア」という組織が”敵”として位置づけられます。彼らの目的は、「20世紀の人々が憧れていた21世紀を取り戻す事」。そして、組織のリーダーであるケンの台詞に、以下の言葉があります。
ケン「20世紀には無駄なものが無かった、人々が夢を持ち、21世紀はあんなに輝いていた。しかし、今の日本に溢れているのは『汚い金と燃えないゴミ』くらい」(※要約してます)
それに対し、ケンの恋人(?)であるチャコは、
「現代の人は、心が空っぽだから、モノで埋め合わせようとしている、だから要らない物を作って、世界はどんどん醜くなっていく」(※要約あり)
この場面、クッソ泣ける。開始に十分のところで、バイト帰りの電車に揺られながら、一人泣きました。
確かに、彼らの言う通りだと思う。
20世紀は、おおまかには第二次世界大戦に始まり、その敗北から立ち直る時代。経済の成長率が平均10%、高度経済成長の時代でした。誰もが「明日は今日よりよくなる」と信じていたとか。
それがオイルショックで低成長期に移り、バブル崩壊を機にマイナスになる。そうして現在へと続くわけですから、高度経済成長の奇跡の数十年を知る人たちにとって、21世紀は最早残骸のようなもの。
これが凡そ、前述したケンの台詞の内容だと思うのです。
続いて、チャコの台詞について。これはきっと、21世紀の消費社会の事を言っているのだと思います。東浩紀さんの『動物化するポストモダン』でも語られていますが、アメリカの消費社会が浸透した現代では、「動物が草を食べるように、人々がモノを消費している」 といった事が述べられています。確かどこかの哲学者の言葉の引用としてですが。
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本書はあくまで、「オタク社会」について述べられた文書なので、以下のような例があげられています。「オトナ帝国」との関連性は薄いのですが、イメージしやすいので載せておきます。
人が誰かと恋人になる事の目的には、動物的欲求のほかに、「他者と比較して自分が優位である」と思う優越感がある、とされます。しかし現代の『オタク』は、既存のキャラクターに恋愛感情を抱く。つまり、動物的欲求以上のものが無い。
(実は現在、この本が手元に無いので細かい言及は出来ないです。若干内容が間違っているかもしれません。すみません……)
とにかく、「現代の人々は心が空っぽだから、モノで埋め合わせようとしている」というチャコの台詞は、消費社会を指しているのだと思います。
さて、ケンとチャコの目的をまとめたところで、最初に挙げた事柄に立ち直ります。
20世紀は昭和で、21世紀は平成なのか?
ぼくはそうだと解釈しています。何故なら、前述した通り、ケンの言う「20世紀」は、高度成長期に支えられていました。しかし、高度成長期はバブルの崩壊によって終わりを告げます。それが平成始まって直後の出来事。
更に、平成が始まった1989年、ソ連で革命が起き、二年後には崩壊します。
つまり、世界では冷戦構造が崩壊し、国内では高度成長期が崩壊したのです。
それは、二つのイデオロギーが対立するという大きな物語の崩壊であったし、「明日は今日よりよい日になる」という幻想が崩壊でした。
つまり、大体平成が始まる頃に20世紀に人々が見た夢は崩壊しました。
そういった訳で、「オトナ帝国」は、昭和と平成の対比であると思うのです。
「21世紀に生まれた子供」というアンチテーゼ
僕が、20世紀と21世紀の対立構造が、昭和と平成の対立であると前述したのにはある訳があります。それは、「オトナ帝国」の世界観において、自分を「子供」として位置付けたかったからです。
何故なら僕は20世紀生まれであり平成生まれ。単に20世紀と21世紀の対立という構造だったら「オトナ」サイドになっちゃう。平成最後の日に「オトナ帝国」を見た僕は、それでは困る。なんだか、見ている自分の位置づけが分からなくなる。
という事で、自分は「子供」であると思いたかったのです。
ところで、前述した通り、本作はケンという人物が、自分たちが子供の頃(=昭和)にみた「輝かしい未来」を取り戻す、という内容です。
確かに、誰もが疑わずに「明日は今日よりよくなる」と信じていた高度経済成長を知る者にとって、ケンの目的は魅力的です。「20世紀から見た21世紀」という抽象的な象徴は、確かに取り返せるのなら取り返したいと思えるものだと思う。
昭和を知らない僕でも、思わずうなずきそうになります。というかうちの弟は何を知ったのか、日ごろから「あぁ~昭和に生まれてぇ」とか妄言を吐いています。
「子供の頃に見た輝かしい未来を取り返す」
そんな魅力的な目的ですが、ここで一つのアンチテーゼが投げかけられるのです。
それが、「子供」という存在。物語序盤にカザマ君が言っているように、子供達には「懐かしい」という事が分からない。何故なら彼らには未来しかない。懐かしむべき過去を持っていないのだから、取り返すも何も、今ある未来しかない。
「オトナ達」の知る、「20世紀から見た21世紀」を知らないのだから、きっと今ある未来だけを疑わずに信じている。
この「オトナと子供の対立」はきっと、「平成に存在する現実の未来」と「昭和に存在していた幻想の未来」のどちらを選ぶか、という対立に見えるのです。
そして、この対立構造では僕は、「平成に存在する現実の未来」を選んだことになる。そして僕は令和が来る前に、自分が「平成に存在する現実の未来」を生きたのだと思いたかった。そんな理由で、時代が変わるこのタイミングで、僕はこの映画において自分が子供であると思いたかったのです。
くだらない理由で申し訳ない。
オトナは何を選んだのか
という訳で、子供とオトナの対立構造について、説明しました。
では、最後に、この「平成に存在する現実の未来」と「昭和に存在していた幻想の未来」の二択で、大人は何を選んだのか、という事について述べたいと思います。
本作では、大人たちがまるで子供の様になってしまう描写が恐ろしく描かれています。何故大人たちは子供の様になってしまったのか?
それは「20世紀の匂い」を嗅いだからです。
この作品において、「匂い」は重要なカギを握っています。(きっと、匂いじゃなくても成り立っていたと思うのですが、確かに「匂い」が一番都合が良いんじゃないかな、と自称物書きは思います)
本作での「匂い」とは恐らく、歴史や時間なんかと言った、時の流れの一部が具現化したものとして捉えるのが正しいと思います。
「20世紀の匂い」とは、「明日は今日よりよい日になる」と人々が信じた、昭和の雰囲気そのもの。その雰囲気、つまり「昭和」という時間の具現化したものによって、大人たちは現代を忘れ、ケンの作った昭和の街に溶け込んでしまいます。
この匂いへの唯一の対抗策が、「野原ひろしの足の臭い」でした。
ひろしが靴の臭いを嗅いで現代を思い出すのは、恐らく一番の泣き所だと思う。
ところで、この長い回想シーンでは、ひろしはとにかく歩きます。初めは親の背中に寄り掛かって自転車に揺られていたけど、やがて一人で学校に通い、時には恋人と歩き、また時には職場の上司と歩く。
そんな彼の歩いた歴史が詰まっているのが、「足の臭い」だと思うのです。それは苦い思い出でもあるし、決して華やかでは無いけど、歩き疲れて家に帰ると、子供たちがいる。子供たちは、靴の臭いを嗅いで笑い転げる。
そんな、彼の長い歴史が、足の臭いに詰まっていたのだと思います。
親の背中に寄り添っていた子供の頃、つまり20世紀も懐かしいけど、自分で歩いてきた21世紀がある。
それは決して華やかでは無い歴史だけど、それでも自分で歩いた21世紀は、記憶の中の20世紀に打ち勝った。
だから、「20世紀の匂い」に「足の臭い」が勝ったのだと思います。
ちなみに、ケンとチャコは同棲しているも、結婚はしていない。ここからは「家族を持つ者」と「家族を持たない者」の対比も見えますね。
ケンもこの対比は理解していた。彼自身、自分の求める未来が本当に正しいのか迷っていたのだと思います。だからこそ、終盤では野原一家にチャンスを与えたのだと思います。
だから、鉄塔の最上階で、足にしがみつくしんのすけを冷酷に振りほどくシーンでも、ケンとチャコはつらそうな表情をしています。
だからここもめっちゃ泣いた。
最後に
以上、オトナ帝国が面白かった、という感想を長々と語りました。多分もう数回見れば作画とか元ネタとかでも色々と語りたい事が出てくると思いますが、それもまた機会があれば、という事で。
ちなみに、最後のケンとチャコが飛び降りようとするシーンの解釈が自分の中で出来ていない事、実際に昭和を生きた訳でないので不鮮明である事等、課題は多々ある評論でした。ここまで全て読んだ奇特な方で、まだ何か物申す余力があれば是非コメントに書いていただきたいです。
とにもかくにも、平成を振り返り、令和を臨む機会に、ついでに昭和と平成についてよく考え直す、という意味も込めて行ったオトナ帝国の評論でした。
では皆さん、良い令和を!!